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Contribution寄稿

「〈純粋な心〉に生きる 」

美術評論家 中野 中

 半世紀ほども前の古いエピソードで恐縮だが、それをまず紹介させていただく。
 
 私が20代の独身のころ、母は奥信濃から夜行列車で上京し、私のアパートを訪ねては掃除、洗濯、食事などの面倒を見てくれた。ときには”ここが二重橋だよ、おっかさん”などと連れ立って東京見物などしたが、あるときどうにも都合がつかず美術館の取材に同伴した。母はひたすらに、真っ直ぐに生きてきた人で、絵を楽しむどころか興味を持つ余裕さえなかったと思うのだが、ふと母を見やると、足をとめて一枚の絵に見入っている。そんな場面が再三あった。

 取材のあと食事をしながら、母は珍しく饒舌に”絵って素晴らしいね”と語りはじめ、足をとめた作品のいくつかについて話題にした。それらの絵は決して著名な画家のものでもなく、また傑出してうまい絵でもない。うまく思いを説明できないことにもどかしそうな語りではあったが、それらの絵は、要約すれば”こころに触れた””人生観を感じた”ということだった。
絵の巧拙ばかりにとらわれていた未熟な私には、母のその言葉はまさに”目から鱗”であった。初めて絵の力を思い、絵(表現)の本質に触れた思いがした。

 〈童画〉というものが、正直言ってよく解っていないことを告白せざるを得ない。イズムではないであろうし、時代の流行的なものでもない。
もちろん統括的なスタイル(様式)があるわけでもない。現代童画展は折々に見てはきたし、審査員のひとりに加わってからは、本展はもとより春季展や選抜展にも足を運ぶようにした。

 そしていま、この稿の執筆にあたりここ数年の図録にも繰り返し目を通した。しかし、一点々々は面白い。面白いで失礼ならば、興味深い。
すべての作品とは言わないが、一見して次へ進むのには抵抗を覚える。目(視覚)ばかりでなく、こころ(情感)にひっかかってくるのだ。

 もちろん、構成がどうだ、配色は如何なものかなど、仕事柄の悪しき?習慣で、どうしても視覚的な可否を見てしまう。そして良く描けてると見た作品は案外軽く(安心して)次へ移ってしまう。
むしろ何かの違和感や何故と思わせる(例えば色違いや挿入されている素材や筆致や・・・等々)作品に足をとめる傾向がある。絵を、そして作者の意図を読もうとするのだがすべてが解るわけではもちろんない。そうして会場を戻りながら先ほど軽く通り過ぎた作品が気になって改めて見ると、見落としたことに気付いたり、新たな発見が生まれたりもする。
絵はつくづく幅も深さもあるものだ、と思う。

 画家に限らず生きとし生けるものはすべて時代の子である。今日の混沌とした世のありさま、そこに生きる人間の心のゆらぎ。人間のもつ根源的な性(あるいは業)と日常のなかでゆらぐ感性を、画家は自身の自画像として吐き出す。

 シビアに迫ったり、明るくメルヘンチックに展開したり、あるいはエキゾチックに、また心象を濃密にこめたり・・・等々、まさに百人百様、各個の人生観をいまの立ち位置に心身を据えて、培ってきた技術と様式でもって表現する。そこに画家の思考や人間性が出てくる。出てくるのは当然であり、必然であり、意識しようとしまいとそれが顕現されるからこそ、作品に個性が付与され、表面だけでない深々とした世界(心情)が生まれてくる。そのことが冒頭で触れたエピソードの、母(観る人)の心と交叉し、人生の接点となってきたのだろう。
 
  表現に肝心なのは、既に触れたように人生観であり、哲学であり、宗教観や風土など全人格から生まれるものであり、小手先の技術ではなく、心の奥底から湧き上がってくる心情(思い)こそがモチベーションとして大事なことなのであろう。そして、その根源にあるものがナイーブ(純心)な心性であり、そのことを第一義として旗幟を掲げているのが、現代に生きる童画、つまり〈現代童画〉なのである。

 このことを確として心に据えれば、個々それぞれのモチベーションに素直に、無邪気に、ときには愚直なまでに従えば良いのである。とにもかくにも、”純粋な心の絵画・ナイーブアート”の更なる隆盛を楽しみにしている。(追伸 私は果たして純粋な心で観賞できるかどうか、それが問題だ。)

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