Contribution寄稿
「 ナイーブアート 」
作家 リュボミル・シモヴィッチ
「ナイーブ・アート」という言葉そのものにずっと違和感を抱いてきた。その言葉の正確さが気になる。
「ナイーブ・アート」における「ナイーブ」とはいかなる意味をもつものなのか。
アマチュアで、無知で、子どもじみたものへの椀曲表現に過ぎないのだろうか。
「ナイーブ・アート」を様式化されたものやアカデミズムへの反発として認識する人間さえ、この表現の正確さを疑うだろう。
たとえ、「ナイーブ・アート」にこのような要素があるとしても(私はそうとは思わないが)、「ナイーブな」ジャンルとはいえないだろう。
また、「ナイーブ・アート」世界は、近代化が進んでいくなかで人間が社会から疎外されずにいられるためのツールだと信じている人がいる。
彼らも「ナイーブ」に違和感をおぼえる。実際「ナイーブ・アート」がこうした力をもっていたとしても(私には思えるが)、「ナイーブ」という表現がふさわしとはいえないだろう。
なぜなら、ものごとへの反発という行為は「ナイーブ」とは言えないからだ。
「ナイーブ・アート」をどうしても名づけようとするなら、それはやはりオルタナティヴと呼ぶべきだろう。
ここでいうオルタナティヴとは、前衛的なスタイルも含めた流行の現代芸術へのオルタナティヴなものという意味である。
すると、この「ナイーブ・アート」と前衛芸術が、同じオルタナティヴという枠組みのなかでいかに語りうるかという問題が浮上する。
いわゆる「ナイーブ・アート」の画家たちは率直で、素朴に日常生活を描いている。自分たちの家や野菜畑、収穫や結婚式の様子、果物やお花、ガチョウやヒョウタンなどを描くことによって、彼らは日常生活の美しさ、または日常生活にあってほしい美しさを表現しようとする。
したがって、彼らの描く絵は決して単純なのではなく、素朴なのである。
そして、そうした「ナイーブ・アート」の作品は、現代アートに逆らおうとするものではなく、現代アートのために、現代のアーティストがみずから忘れようとする、
描く行為への誠実さや美しい思い、純粋な心を守ろうとするものである。